青写真の議論を始めるに当っての基本的コンセンサス |
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「科学」は使用に耐え得るか? そうは言っても科学以外のツールを持ち得ない悲しさ |
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そもそも「客観的」(科学的)であることは可能か |
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「客観的」(科学的)立場とは、事実と単純な論理のみを扱う立場 |
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事実の抽出において「価値」を移入せざるを得ない? |
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事実の抽出は、概ねある特定のパラダイムの内部で行われる |
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言語世界(いわゆる科学の世界がその典型)では、言語化されないものを用いることはルール違反となる |
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論理は使用せざるを得ない |
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論理的なことは認めざるを得ないし、非論理的なことは排除せざるを得ない |
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これは議論する上での最低限度のルール |
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「科学の属性」は次の2点に集約される |
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事実は言語化されねばならない(言語至上主義) |
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実在する事柄の極一部のみが科学的に言語化されている? |
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言語化されていない事柄(科学的に記述されていない事柄、実は大多数の事柄)を無視してよいのか |
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同一な条件の下では同一な結果が得られる(再現性の原理) |
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厳密な意味において、「同一条件」は有り得ない?(「同一条件」自体がある種の幻想?) |
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「同一条件」とは、恣意的に決定された許容範囲内の誤差を無視した「ほぼ同一な条件」のことではないのか |
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無視できる、あるいは観測不能な誤差が原因で巨大な相違を結果的に生むシステム(カオス)も沢山ある |
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「無私」であることの重要性 |
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事実の抽出において、極力「価値」の移入を防ぐための唯一の手段 |
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実用科学との分離 |
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純粋にアカデミックな立場とは、扱う分野に関わらず、「真理の追究」が最終目的とならねばならない |
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これまで、全ての「実用科学」が真理を追求したためしがない |
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テクノロジーが最終的に追求しているのは「精度」であり、「真理」ではない |
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「環境学」を、「学」として成立させるための条件は何か? |
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「エコ指標」を策定するための鍵 |
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あまりにも多岐にわたる分野を、果たして総合できるか |
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個別分野の研究は進んでいるが、それらを統合して初めて「学」としての価値が生まれるのではないか? |
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個別分野を全体の中で如何に位置付けるかが最大の問題 |
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個別分野での「努力目標」が、全体の中で的確に位置付けられ、評価されることが重要 |
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これが可能だという考えは、もしかしたら人間の能力を「過大評価した」考えかもしれない? |
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あるいは、そもそもコントロール不能なレベルまで、人間は外部との関係性を持ってしまったのではないのか?? |
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種々の問題の基本的属性としての「グローバル化」 |
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今日的問題が解決困難な理由は、問題がリージョナルではなくグローバルになってしまったことにある? |
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個々人の行動、個々の地域の行動が、地球全体に影響を及ぼすという事実 |
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「グローバルに考え、リージョナルに行動する」ことが、本当に可能なのか? |
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人間にそこまでの能力が果たしてあるのか?? |
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では、コミュニティー内で問題解決可能またはコントロール可能な「範囲」とは、どのレベルか? |
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江戸時代における「流域」内物質循環システム |
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とりあえず歴史的に可能であった「範囲」としての「流域」という考え方 |
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実効力を持った「学」になるための戦略とは |
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難しいことだが、人間の能力を見極めることが先ずは必要 |
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問題がグローバル化してコントロール不能になりつつある現象の分析 |
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地球環境問題はグローバルなレベルでコントロール可能か |
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グローバル金融市場はコントロール可能か(恐らくは不能!) |
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核兵器はコントロール可能か(核保有国の首長たちは信頼できるのか?) |
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原子力発電はコントロール可能か(不能であるということで全廃した国があるのではないか?) |
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コントロール不能であるという事実をもって、能力を超えていると考えるべき |
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「若葉マーク」にF1はコントロールできない |
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小泉さんは日本をコントロールできない? |
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自らの能力を超える分野に関してどう対処するか? |
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最も謙虚な立場は、「やめること」 |
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新たな化学物質は作らない? |
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コントロール不能な(循環不能な)化学物質は製造禁止? |
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グローバル金融市場も閉鎖? |
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原子力も当然廃止? |
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でも、やめられないのが人間の性? |
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ある程度の欲望の抑制は必要では? |
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「等身大」の学としての「環境工学」とはどのようなものか? |
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外部(特に遠隔地)との関係性をどのように整理するか? |
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「地産地消」等、地域内物質循環の推奨と、それらの行為のグローバルな位置付け、価値判断 |
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(附論) |
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大量生産・消費経済の問題点 |
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欲望をコントロール不能にするシステムであるという事実から考えると、人間の能力を超えたシステムである |
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『自由主義経済は欲望を過剰に増殖するシステムである』(シュンペーター) |
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当然だが、「ゼロ エミッション」に反し?、右肩上がりの増殖が存続の条件になる |
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唯物主義、拝金主義をはびこらせたという点でも罪深いシステムである |
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いわゆる『大衆』(オルテガ)を生んでしまった最大の温床が、大量生産・消費経済であろう |
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でも、やめられないのが人間の性?? |
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理想的社会システムに関する基本的姿勢 |
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戦後民主主義の呪縛から抜け出そう! |
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「個人」の不在(現在の日本に蔓延する「無責任」の温床) |
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これを改善しない限り将来は有り得ない! |
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「革命は大衆によって為された」という幻想 |
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なぜ、革命はマルクスがいたから、レーニンがいたから可能だったと言わないのか? |
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個人の責任を明確化できない社会構造 |
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個人の能力を評価できない社会構造 |
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アメリカのような競争社会(弱肉強食の社会)にする必要はないが、個人の能力を評価することは必要 |
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問題解決能力を持ったリーダーを輩出できない教育制度 |
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劣等も優等も、個人の突出を許さない教育システム |
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「恥の文化」ではなく、「嫉妬の文化」 |
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今や、恥、即ち個人の尊厳、プライドは完全に消失し、悪質な相対主義に基づく「嫉妬」が行動原理となっている |
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実際の社会形態はさておき、有能な人間がリーダーであることが最重要 |
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一個の人間がコントロールできる社会規模であれば、例え専制であってもリーダーが有能であれば社会は成り立つ |
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最小規模としては「家庭」(亭主関白だろうが、肝っ玉だろうが、リーダーは必要です!) |
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外部との関係が複雑でなければ、小コミュニティーにおいても一人のリーダーでOK? |
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社会規模が大きくなった場合・社会構造が複雑になった場合 |
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個人でなく、複数の有能な人間のグループが必要となる |
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官僚制度 |
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NPO?? |
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民主主義をどう捉えるか |
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リーダー抽出システムの一形態に過ぎない? |
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普通選挙制を採用した場合、有能な人物が選ばれる保証は何もない |
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多くの場合、特定の利益団体の利益代表に過ぎない |
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議員は利益団体の「アッシー」に過ぎない? |
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「アッシー」を操る「商人」の社会的優位が発生する? |
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衆愚政治に陥る危険性を常に内在する(アメリカがその典型か?) |
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武力なしに政権交代(革命)が可能なシステムとしての民主主義 |
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リーダーの最低限の責務としての「ディスクロージャー」 |
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常に外部からの批判を可能とする、制度としての「ディスクロージャー」は、どのような社会形態であっても必要 |
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NPOの機能は何か? |
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「市民社会の構築」という浮ついた?高貴な?ミッション |
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そもそも、多くの人々が「市民」になることが本当に可能なのか?? |
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「大衆の反逆」(オルテガ)をどう解釈するか? |
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真の意味での市民(自ら問題を解決可能な人々)がマジョリティーとなった社会は歴史には存在しない |
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NPOの真の機能 |
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能力の抽出 |
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問題解決能力を持った個人を社会から抽出する機能 |
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議会制民主主義を破壊、乃至補完する機能 |
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そもそもNPO活動家は、民主的手続きによって選ばれたものではない |
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NPO活動家が例外的に議員になることはある |
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リージョナルな問題を自ら解決する機能 |
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サステイナブルな社会にとって不可欠な機能 |
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官(行政)、民(企業)では解決不能な問題を解決する機能 |
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第3のセクターとしての当然の機能 |
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確かにこの部分は大いに欠けていた |
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あるいは、行政が丸抱えでNPOの機能(「パブリック」な領域全て)を担ってきた |
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地方においてはこの傾向が著しい |
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強すぎる「官依存性」をもたらした温床 |
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人間社会と自然の関係をどう捉えるか |
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生態系の内部であった江戸時代までの人間社会 |
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例えば、里山を中心とする生活システムは、人間以外の動植物を含めた、大きな生態系を形成していた |
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人間の生産活動により、特殊な生態系が生まれ、物質循環をともない持続可能な状態で機能していた |
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そもそも「生態系」とは物質循環を前提とした、持続可能なシステムである |
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現代の人間社会は、生態系の内部か外部か? |
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自然を排除することによって成り立っている「都市」という機能は、生態系の外部に存在する? |
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都市住民と「共生」する生物は腸内細菌のみ? |
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人間は生態系の外部に生きられるのか?? |
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生態系における最大のインフラストラクチャーである「土」から離れて、人間は生きられるのか? |
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生態系からの分離ではなく、生態系内部に再度組み込まれることが必要なのではないか? |
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(附論) |
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宗教をどう定義するか |
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(本当の宗教ではなく、通俗的な意味における宗教の定義) |
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「これ以外は信じない」というときの「これ」を宗教と定義する |
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「科学以外に信じるに値するものはない」と考える人にとって、科学は宗教である |
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『民主主義は人類普遍の原理』(日本国憲法j序文)と考える国民にとって民主主義は宗教に近い存在である |
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「教条化」の弊害 |
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もっともっと根本に疑問を持ちましょう! |
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すべて教条化されたものに対しては、何ら疑問をはさむことが許されない |
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自然科学 |
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科学技術 |
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民主主義 |
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NPOのミッションである「市民社会」 |
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グローバルな問題とドメスティックな問題(日本社会の問題)は分離して考える |
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ドメスティックな問題 |
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ルーツ = |
1940年体制(戦時体制) |
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強すぎる中央集権 |
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問題解決能力の枯渇 |
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大企業中心の経済体制 |
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国民の官依存的意識 |
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戦後民主主義 |
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時間軸 |
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悪平等 |
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無責任 |
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リーダー不在 |
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大衆支配 |
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ルーツ = |
ヨーロッパ近代思想 |
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言語中心主義 |
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自然科学至上主義(唯物主義) |
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勝利者史観 |
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進歩主義 |
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