前文を書くことになった経緯

CBD2020年までの行動計画前文を書くまでのいきさつ

 1年半ほど前、ESD関係のある会合で武者小路先生と哲学的な対話を交わしたのがそもそもの始まりだった。何気なく会話を交わしている中で、近代合理主義の欠陥や言語哲学に関して、無限の概念について、井筒俊彦氏の哲学、補完性の原則などなど、多岐にわたるディスカッションを通して何となくベースラインの共有を行ったことを記憶している。
 その後、正式にCOP10が名古屋で開催されることとなり、武者小路先生も私もESD中部RCEとしてどのように関わっていくか模索することとなる。その過程で、まずは条約の全文を読むこととなった。
 まず問題となったのは、武者小路先生が指摘された「生物」という日本語訳に関してだった。そもそもラテン語によれば、バイオとは「生物」ではなく「生命」を意味するという指摘がこれに当たる。多くの人々は「生物・・・・」といった瞬間に人間外の生物が条約の対象であると考えてしまう。しかし、「生命・・・・」とすれば、その対象は格段に広がりを見せ、当然人間をも含む概念となる。事実、条約文を読む限り、対象は人間外の生物のみならず先住民族の文化保持、女性の参加等いわゆる生物だけでなく人間社会が条約の対象になっていることが分かる。
 単なる誤訳と言えばそれまでだが、この誤訳によって、COP10に関わり始めた国内NPO/NGOの大部分は希少生物保護、生態系保護等を主目的とした団体となってしまった。具体的には、WWF、日本野鳥の会等である。
 さらに条約を吟味すると、この条約が出来た経緯によるのだが、言わば「ごった煮」のように様々な内容を孕みすぎ、その結果確固たる哲学が不在であることに気付いた。多様な議論を積み重ねた結果総花的ともいえる焦点のぼやけた条約であるといっても過言ではない。しかしながら、ごった煮であるからこそ持続可能社会全般に関与する重要な条約であるとの解釈も可能であり、その方向性が模索できれば大いに結構なことである。
 尚、条約の骨子は以下の3点に集約されると言われている。

  1.  @生物資源、生態系の保護
  2.  A生物資源の有効な利活用
  3.  B遺伝資源の権利の保障

 そもそもこの条約が出来たのは人類初の国際環境会議が開かれたリオ(1992)がスタートラインである。1992年は、国際社会が始めて環境の悪化が人類の生活に大きく影響を及ぼしかねない事実を認めた年だった。この会議を契機として環境に関する様々な国際条約ができ、生物多様性条約もその流れの中で出来ていった。条約が出来たのは1993年、リオの翌年のことであった。しかしその後人類は茹で蛙のように無為無策を10年以上継続し、今日に至っている。10年後の2002年に開かれた南アでの環境会議では、「失われた10年」を主張する国際NGOと、企業の初めての会議参加をプラスの材料とする意見が出たが、危機感の膨張は見られず、尚且つBRICsの経済発展も相まって、総合的には「右肩上がり」経済を擁護するベースの上での議論がなされた。
 しかしその後アル・ゴア(「不都合な真実」)とCPCCのノーベル平和賞受賞、更にはオバマ新米大統領の環境対策、更には鳩山首相の2020年CO225%削減案など、ここ数年で一気に世界が動き始めたのも事実で、条約策定時の世界のマインドからは大きくシフトチェンジしたと解釈したい。

 こうした条約本文の点検の後、アジアのそして日本の名古屋で開催されるCOP10なのだから、これを大きなチャンスと受け止め条約にしっかりとした魂を入れようという発案をESD中部RCEに行った。何回かの議論、そしてシンポジウム等を経て正式に中部RCEの事業として認めたれたのは昨年の秋のことであった。
当初は宗教にまで踏み込んだ過激且つ純粋哲学的議論に終始した為あまり賛同は得られなかったようだが、今年の春に行われた勉強会での議論が大いに賛同を得、ようやくサイバー対話が本格的に開始された。勿論哲学的な要素を消してしまった訳ではなく、随所にそれを盛り込みながら議論を重ねていった。議論は武者小路先生のお力で一部国際的に行われ、生物と人間社会の分離を旨とするヨーロッパ社会が果たして賛同するか等、様々な意見が集まった。
 そんな折、10月に国連CBD事務局長ジョグラフ氏が来日された際、武者小路先生との対話の中で、是非とも条約行動計画前文を国連CBD事務局の公式サイトに掲載し、国際的対話を開始しようという提案を頂いた。「すでに対話の時間は終わりました。早急に行動計画前文を書いてください。11月上旬には国連CBD事務局の公式なサイバー対話のサイトがオープンします。それまでに先ずは日本語で書いてください。英訳は私が行います。」という武者小路先生からの電話を頂いたのは、10月中旬のことだった。
 それからというもの、幾度となく草稿を繰り返し、かなりの長文となってしまったが、一応前文を書き上げた。「日本国憲法の前文のような格調の高い、しかもコンパクトに中身の濃い文章を書いてください!」との先生の御要望にどれだけ答えられたかは不明だが、それなりに力を入れて書いたつもりである。
 この前文が、もしかすると今後1年間の国際的な対話によって原型がなくなることも大いに有り得る。しかし、例えそうであったとしても、今回提示した前文の内容が国際的に議論されることには充分なる意義が存在する。と同時に、近代西欧の合理主義に対する国際的な議論が国連CBD事務局のサイトで行われることは、大きな意義があろう。

 是非ともお読み頂き、多様な御意見、ご指摘をいただければ幸である。

 

●ESD中部RCE運営委員会に提出された資料

生物多様性条約前文に関して=生物多様性条約に「哲学」はあるか

 過日開催されたESDフォーラム第4セッションで予告させて頂いたML立ち上げに先立ち、問題意識の共有を図りたく、文章化いたしました。

 先ずは、現行の生物多様性条約前文を示します。
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前文
締約国は、
生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上、レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し、
生物の多様性が進化及び生物圏における生命保持の機構の維持のため重要であることを意識し、
生物の多様性の保全が人類の共通の関心事であることを確認し、
諸国が自国の生物資源について主権的権利を有することを再確認し、
諸国が、自国の生物の多様性の保全及び自国の生物資源の持続可能な利用について責任を有することを再確認し、
生物の多様性がある種の人間活動によって著しく減少していることを懸念し、
生物の多様性に関する情報及び知見が一般的に不足していること並びに適当な措置を計画し及び実施するための基本的な知識を与える科学的、技術的及び制度的能力を緊急に開発する必要があることを認識し、
生物の多様性の著しい減少又は喪失の根本原因を予想し、防止し及び取り除くことが不可欠であることに留意し、
生物の多様性の著しい減少又は喪失のおそれがある場合には、科学的な確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを延期する理由とすべきではないことに留意し、
更に、生物の多様性の保全のための基本的な要件は、生態系及び自然の生息地の生息域内保全並びに存続可能な種の個体群の自然の生息環境における維持及び回復であることに留意し、
更に、生息域外における措置も重要な役割を果たすこと及びこの措置は原産国においてとることが望ましいことに留意し、
伝統的な生活様式を有する多くの原住民の社会及び地域社会が生物資源に緊密にかつ伝統的に依存していること並びに生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用に関して伝統的な知識、工夫及び慣行の利用がもたらす利益を衡平に配分することが望ましいことを認識し、
生物の多様性の保全及び持続可能な利用において女子が不可欠の役割を果たすことを認識し、また、生物の多様性の保全のための政策の決定及び実施のすべての段階における女子の完全な参加が必要であることを確認し、
生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用のため、国家、政府間機関及び民間部門の間の国際的、地域的及び世界的な協力が重要であること並びにそのような協力の促進が必要であることを強調し、
新規のかつ追加的な資金の供与及び関連のある技術の取得の適当な機会の提供が生物の多様性の喪失に取り組むための世界の能力を実質的に高めることが期待できることを確認し、
更に、開発途上国のニーズに対応するため、新規のかつ追加的な資金の供与及び関連のある技術の取得の適当な機会の提供を含む特別な措置が必要であることを確認し、
この点に関して後発開発途上国及び島嶼(しょ)国の特別な事情に留意し、
生物の多様性を保全するため多額の投資が必要であること並びに当該投資から広範な環境上、経済上及び社会上の利益が期待されることを確認し、
経済及び社会の開発並びに貧困の撲滅が開発途上国にとって最優先の事項であることを認識し、
生物の多様性の保全及び持続可能な利用が食糧、保健その他増加する世界の人口の必要を満たすために決定的に重要であること、並びにこの目的のために遺伝資源及び技術の取得の機会の提供及びそれらの配分が不可欠であることを認識し、
生物の多様性の保全及び持続可能な利用が、究極的に、諸国間の友好関係を強化し、人類の平和に貢献することに留意し、
生物の多様性の保全及びその構成要素の持続可能な利用のための既存の国際的な制度を強化し及び補完することを希望し、
現在及び将来の世代のため生物の多様性を保全し及び持続可能であるように利用することを決意して、
次のとおり協定した。

 お気付きのように、何と、この長い文は、ワンセンテンスです。
 多岐にわたり配慮が為されている文ですが、条約の前文に入れるべき精神、哲学は感じられません。私の見るところ、唯一哲学の感じられる箇所は、「科学的な確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを延期する理由とすべきではないことに留意し、」というくだりです。 単なる方法論的哲学ですが、掘り下げると、科学至上主義を廃す、あるいは、科学の限界を暗示させる内容です。尚この精神は、既に欧州では当然のこととして認知されている、「疑わしきは罰する」という精神です。
 さて、ここからが本題。
 過日開かれたフォーラムでも指摘したように、「生物多様性」と「生命多様性」の微妙な差異から話を進めます。結論から言えば、「生物多様性」という言葉の裏には、生物と人間、あるいは、生態系と人間社会の乖離が見て取れます。それに引き換え、「生命多様性」という言葉は、人間、あるいは人間社会を含む、あらゆる生命の多様性が、加えて、生き方の多様性、文化の多様性等々、言葉は少々変ですが「多様な多様性」が感じられます。条約本文を読み進むと、多様な生命資源を使った先住民族の文化の保持等もしっかり記述されております。こうした内容から考えれば、この条約の本来の名称が「生物多様性条約」ではなく、「生命多様性条約」であるべきことが感じられます。
 もし、これを正式に認めるとなると、それを支える哲学が必要となります。少々飛躍しているかも知れませんが、先ずは、生物と人間、あるいは、生態系と人間を峻別してきたヨーロッパを中心とする自然観を批判しなければなりません。古来ヨーロッパ社会(あるいは一神教社会)では、自然をあくまでコントロールすべき対象として考えてきたように思えます。この思想の特徴は、この世を様々なかたちで二極分離するものです。人間と自然という二極分離、自他という二極分離、真偽という二極分離、善悪という二極分離、そして、救われる者と救われざる者という二極分離等がこれに当たります。ここにこそ、あらゆる多様性を排除してきた精神的基盤があるのではないか、と私は考えております。また、ここのところ進行しているグローバリゼーションとは、地域の風土に根ざした文化を破壊し世界を欧米化する試みとも言えます(欧米が善でその他は悪?)。
 こうした考え方の対極にあるのがアジアの自然観です。アジア人の目指してきたのは、自然との融合です。あくまで自然の中に人間社会が在り、大きな命(自然)の中で小さな個の命(自分の命)が活かされているという心情です。また、ありとしあるもの、生きとし生けるもの全てに平等なる権利が存在するという仏教的自然観(アジア的自然観、あるいは、多神教的自然観)も、この心情に通ずるものでしょう。これを自然科学的に表現するなら、生態系、あるいは食物連鎖は、その極一部でも破壊すると系全体に影響を与えてしまうので、構成要素全てに平等な価値が存在する、と説明できます。安藤昌益など先駆的な研究があったにせよ、環境学、生態学等はすぐれて現代的学問です。こうした近代科学の成果も重要ではありますが、先の仏教的自然観が示すように、アジアでは数千年前から正しい結論を出していたことになります。ESDが始まった当初より主張させて頂いている「自然資本主義(Natural Capitalism)」も決して新しいものではなく、アジアモンスーン地域、あるいは、世界の数多くの先住民族の古くからの自然観を表したものと言うべきでしょう。
 私の基本的なスタンスは、COP10を好機と捉え、世界に東洋思想の優位を伝えることにあります。もちろん一神教世界にもキリスト教神秘主義のエックハルト、イスラム神秘主義のスーフィズム等々、真の多様性に通じる精神が見られるという事実もあり、一概に一神教世界が全て駄目というわけではありません。従って、欧米といえどもこうした考えに同調して下さる方々がたくさんいらっしゃるはずです。
 そうした様々な意味を勘案した上で、生物多様性条約はグローバルな問題群=持続不能問題群を解決する為の鍵になる条約と考えております。しかも、アジアの、日本の、名古屋で開催されるという意味は大きいと感じております。アジアで開催されるCOP10だからこそ、アジアの思想的優位性を世界に投げかける絶好の機会であると考えております。
 条約前文にこうした思想を入れ込むことは極めて困難でしょうが、最低限、世界のNGOが共有の土俵の上で上記の事柄に関して議論が展開できればと考えております。また、例え前文に入れ込めずとも、付帯決議に、あるいはCOP10の主要議題である「行動計画」作成の中に盛り込むことができれば、大成功と考えております。
 尚、議論の進行に伴って、国民国家の功罪、国家の限界等も当たり前のこととして論じられるでしょう。国家の役割というコンテクストでも生物多様性条約は重要な鍵になると考えております。空中、水中等、流体を生息域とする生物(鳥類、魚類、蝶等)には、そもそも国境はナンセンスです。国境とは人間社会だけに意味のある、バーチャルなものですので、こうした生物、あるいはこうした生物を含む生態系を論じる主体が国家であることの功罪を考えなくてはなりません。この点に関しては、国境を越えて活動するNGOの役割が極めて大きいと言わざるを得ず、“COP(締結国会議)”という単なる国家間の議論だけでは片手落ちとなりかねません。
 以上、ホスト国である日本、そしてホスト都市である名古屋のNPO/NGO、大学、市民は、単なる接待役ではなく、極めて重大なる責任を負っていると感じております。

過日行われたフォーラム第4セッションでは、私の力不足によりこうした意図が正確に伝わらなかったように思い、先ずは条約前文追加・修正の必要性に関する趣旨を皆さまにお知らせしたく、文章化した次第です。

●2009年7月に行われた中部RCE研究会で発表された資料

        暗黙知と生物多様性 (pdf/522KB)

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