行動計画の前文

前文の前文

2020年までの行動計画策定に先立ち、もう一度生物(生命)多様性条約の趣旨を振り返り、しかも本条約を貫く明確な原理・原則を確認するうえで、この前文を提案する。

 振り返れば20世紀は国民国家の覇権闘争に終始した100年であったが、それと同時に、世界が近代合理主義(=近代欧米文明)に満たされた100年でもあった。そしてその過程で、世界の多くの自然資源・生態系が消耗、破壊され、それと共にその多様性が失われていった。また、贅沢の尺度とも言い得る化石燃料を中心としたエネルギー消費量は、資源の有限性を無視して爆発的に増大し、挙句、気候変動をもたらすに至った。さらに、世界の3/4の資源を世界人口の1/4の先進国群が利用してきたことも再確認すべき事実である。
このような歴史的経緯を踏まえ、COP10の主要テーマである「2020までの行動計画」策定に当たっては、未だ強いバイアスを保っている20世紀的な思考を振り返り、大いに反省し、新たなる、そして確固たる原理を構築することが先決と思われる。既に今世紀に入って10年が経過しようとしているが、世界の人々はようやく今、真の意味での持続可能社会を切望し、そしてその帰結としての世界平和をも切望するに至った。
そもそも本条約は、多々ある環境に関わる国際条約の中で最も広範な内容を含んでおり、世界の人々が希求する持続可能社会構築そのものに対する条約といっても過言ではない。

 

今後、本条約がより進化するとともに、当面の課題である2020年までの行動計画が、世界の各地域の多様な生態系、そしてそれを持続的に利活用してきた多様な文化を再生・保持し、世界全体が子々孫々まで持続可能になることを切に希望するものである。

 

前文

生命の多様性を考える上で、第一に問題にすべきは人間と自然を、あるいは人間と他の生物を峻別する自然観である。近代文明が前世紀世界に蔓延させた自然観は、人間と自然を分離させ、いかに自然をコントロールするかという技術を発展させた。これにより先進国群市民の物質的生活は、人類始まって以来の高水準となった。しかしながら、その生活文化は枯渇性資源(石油、ウラン、リン鉱石等)を利用したものであった為、今や持続不能状態に陥ろうとしている。
 人間と自然を分離する思想は、古くは過酷な自然の中で生き抜いた古ゲルマンの文化に見られる。しかし近代に入り、自然科学の発達とそれに伴う科学技術の発展により自然資源をコントロールする術を持った人類は、当たり前のように自然を人間外部の対象物として捉えるに至ってしまった。
 かくして人類は先進国群を中心に生物資源のみならず非生物資源を含めたあらゆる自然資源を無節操に利活用することとなった。物質的生活の向上は達成できたものの、生態系に、あるいは自然そのものに巨大な負荷をかけ、今や自然そのものが回復不能な状況に陥ろうとしている。
 そしてその過程の中で、多くの生物種が絶滅の危機に陥ろうとしている。そのスピードはかつて無いほどのもので、人為によることは最早明白である。人類に益となる生物資源を過剰に利用したことにより、生態系内部の関係性が破壊され、多くの生物種が絶滅しようとしているのである。これまでの学問体系はその多くが要素還元主義的手法によるものだが、関係性そのものを追求する生態学の手法は歴史が浅いといえるだろう。しかし、生態学の誕生の遥か前から、人類がこの世に生をもった瞬間から、人間は体内の無数の微生物と共生している。と同時に、生態系はあたかもそれ自体が一つの生命体のごとく、環境に適応しながらこれまで生きながらえてきたのだ。
また、古来山に生きる人は、木を切ることは自分自身を切ることと感じていたし、大地を傷つけることは、自分自身を傷つけることと感じてきた。これは単なるアニミズム的な宗教感情ではなく、自分が地域の生命資源とともに生きているというリアルな実感からくる感情である。更に言えば、生物個体とは単独で存在することは不可能であり、周囲の自然資源との関係性の中でのみ存在可能なのであり、これは生物種のひとつである人間とて決して免れることは出来ない。どのように自然から乖離した生活をしようが、毎日の食、エネルギーは自然資源無しには調達不可能なのである。
 思い返せば、このことを忘れかけた瞬間から生態系の破壊が始まったといえる。近代文明の土台となった合理性とは、実は極限られた論理空間でしか成立しない浅薄なものであり、合理主義がもたらした巨大な非合理性を、我々人類は大いに反省すべきである。

前世紀の終わりになると、IT技術を基盤として人類の活動はよりグローバル化し、国境を越えた企業活動が盛んになった。実体経済のみならず、国際金融市場の拡大に伴って、予測不能な、そしてコントロール不能な状況が発生するに至った。金融至上主義、市場原理主義の蔓延は様々な形で実体経済を、そして地域の社会的共通資本をも破壊しつつある。
さらに、巨大な多国籍企業群の出現は世界のガバナンスに多大なる影響を与えるに至った。国連加盟国群とこうしたグローバル企業の財政規模を並べると、上位30に10あまりの企業が存在し、国際社会の意思決定に大きな影響を与えている。こうした企業群は、企業である以上「私益」を追求する組織であり、「公益」を代表する国家、国際社会での意思決定に影響を及ぼしていること自体に問題を提起せねばならず、「私益」が「公益」に優先したモラルハザードは絶対に許してはならない。
また、グローバル化の実態は、世界を欧米化するということであり、多様性に満ち溢れている世界の各地域の文化はグローバリズムによって破壊されつつある。世界各地域の文化の破壊とは、世界各地域の生態系の破壊と同義であり、グローバリズムがもたらした生態系、世界各地の固有文化の破壊は容認しがたいものであり、特に先進国群の責任はあまりにも大きい。

そもそも地域の自然資源はだれのものか。自然資源は誰のものでもなく、誰のものでもある。生態学的な考え方をすれば、生態系を構成する全ての生き物、あるいは非生物に同等の権利を与えない限り、生態系の維持は不可能となる。
多くの先住民族のことば、とりわけ有名な言葉としてはシアトル酋長の言葉があるが、本来自然は誰のものでもない。誰のものでもない自然の一員として、生態系の一員として人類はこれまで生きてきたのだ。たとえ人類が発明した人間社会だけに通用する「所有権」という概念を肯定するとしても、その中身は、自己の所有する自然資源を生態系の一員として適正且つ持続的に管理する義務を伴うものでなくてはならない。

わずか150年を遡っただけで、近代合理主義の萌芽をみるヨーロッパ社会とアジアを比較すると、文化の相違が際立って見える。大航海時代を経て19世紀中庸までの世界貿易は、欧州の圧倒的な輸入超過、アジアの輸出超過を歴史が物語っている。アジアには、古来自給的な文化があり、自給的な文化とは、地域の生命資源を有効に利活用した文化である。アジアの輸出超過とは、自給して余りある自然資源の欧州への流出を意味している。
今回COPが開催される東アジア一体は、日本等のOECD諸国を除けば、今でも自給を中心とした文化を残存させている。地域の自然資源を唯一の生産財として、地域で自給的な生活を営んでいる。これこそが生命多様性条約の目指すべき姿である。開催国の日本でも辛うじて残存する山里の生活は、地域の再生可能な自然資源をフルに利活用し、食、エネルギー、医薬品等を持続的に自給している。このような地域固有の文化こそが、本条約の目指すべき一つのゴールであるように思える。そこには、誰のものでもない、そして生態系全員のものである地域の自然資源を共有の持続的財産とし、共有で管理するというコモンズが残存している。コモンズとは、地域の自然資源を包括した「ヒト生態系」なのである。
かつて日本では、農地と農地に蒔く様々な穀物や野菜の種子の持続的利活用のみならず、里山と呼ばれる近隣の森林は25〜30年サイクルで伐採され、持続的に地域のエネルギー源となってきた。そして、コモンズは伝統的、重層的に蓄積された分厚い暗黙知によって支えられてきた。こうした暗黙知とは、地域資源に関する様々な情報、その利用法に関する様々な知的情報、更には地域固有の多様な神々に祈る宗教的秘儀をも含むものであった。
しかし、残念ながら、国民国家の出現、近代合理主義の蔓延によって、それまでのリアルな生活基盤であった資源の共有を旨とするコモンズとそれを支えてきた暗黙知は崩壊し、多くの共有資源は政府と個人に二極分離されてしまった。伝統的暗黙知は、地域の自然資源を有効に利活用する知的財産であり、その崩壊は生命多様性にとって重大な問題を孕んでいる。
このような地域固有の資源の利活用という本条約の理想に対して、グローバル化した経済、そして市場原理主義を全面的に肯定した方策により、何をどう解決しようとするのか。本条約の本文を読む限り、明確な原理に基づき生命多様性を積極的に保持する姿勢は、あまりにも脆弱と言わざるを得ない。もちろん、グローバル化した経済状況、蔓延する市場原理主義を、あるいは、昨今国際的に反省期に入っている金融至上主義を全て排除することは出来ないし、わずかな価値を認めることも可能である。しかしながら、生命の多様性を真摯に希求する世界の多くの地域住民にとって、こうした前世紀的価値観はそぐわない。DNA等生命資源に関する権利の保障とは、市場経済原理だけで解決すべき問題ではなく、地域固有の生命資源の拡散は、生態系の撹乱に繋がる可能性も否定できず、予防の原則を重視する必要があろう。

これまで述べてきた地域固有の多様性を孕んだ人間を含めた生命の営みを確保、保全する為には、ガバナンスとしての「補完性の原則」が不可欠となる。そもそも、驚くほどの多様性を秘めた生態系を、地域でなく国家が、あるいは国際社会が、どのように保全するのか。こうした生態系保全の主役は、あくまでも地域の住民である。そして、もしも近代文明のもたらした権利というものを考えるなら、その権利は、これまで連綿と地域の生態系を保持してきた地域住民以外には考えられない。旅そのものを生業とする砂漠の民は別として、農耕による定住を旨とする民族は、これまで数千年にわたって地域の自然資源を保持し続けてきた。こうした地域住民こそが生命多様性の主役であり、生命多様性を論じる主体が国家だけであることは論理的に不都合である。
国家を構成する小地域、そして、国家を超える地球規模の領域等、生態系は様々な広さを生きる舞台としている。コンパクトな生態系を構成している日本の里山保全の主体はその地域の住民だが、広く外洋を泳ぐ回遊魚に領海は意味を為さない。渡り鳥の国籍を誰が論じられるか。あるいは、明らかに人為そのものである直線的に描かれた国境線を意識している生物がいるのか。
もちろん、本条約の締結主体はあくまでも国家である。しかしながら、条約の中身を論じる主体が国家だけであることは、論理的に考えて不都合である。本条約の直接の主体者は、国家だけでなく、地域に生きる様々な人と組織、そして国境をまたいで活躍する国際NGO/NPOが新たな主体となることに重要な意義が存在する。

古来アジアでは、人間はあくまでも生態系の一部であること、そして、人間に限らず生き物も非生物も、関係性の中でしか存在し得ないという思想を保持してきた。今回COPが開催される日本もその例外ではなく、そうした文化が多くの山里に未だ残存している。
このような考えは、自然資本主義として、あるいはバイオリージョナリズムとして徐々に国際的な価値を高めている。再生可能な自然資源の大部分は生命がもたらすものであり、その利子分だけを持続的に利活用しようという自然資本主義、そして、定住民にとっての生産財は地域の自然資源であり、その利活用を基本的な人間の営みと考えるバイオリージョナリズムは国際的にも通用する概念となりつつある。
こうした考えこそが本条約の根本にしっかりと位置づけられるべきである。尚且つ生命多様性を保持するガバナンス体制として補完性の原則を採用することを本条約の基本理念と位置づけることは行動計画作成に於いて極めて重要となる。

今後本条約の行動計画が、単に市場原理主義に基づく国家間・企業間の権利の調整に終始することなく、ここで述べた確固たる原理に基づいたものとなり、世界のあらゆる地域の持続可能性を実現し、ひいては20世紀的な資源の争奪戦を排除した真に平和な世界を構築する礎になることを強く希望するものである。

 

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